夢・挑戦・自己実現〜夢をつかむ法則
ニャティティ奏者として認定されたその日、師匠オクム・オレンゴが私に言った。
「アニャンゴ。あなたは今、正真正銘、世界で初めての
女性のニャティティ奏者となったのだ。
世界中に出かけていってこの楽器を演奏してきなさい。
私が行けない所まであなたが行って、この楽器を奏でてきなさい」。
この言葉を胸に、今日も私はニャティティを奏でる。
9・11米国同時多発テロ事件が
私の人生を変えた
1981年、東京品川に一人娘として生まれる。
4歳でピアノを習い始める。青山学院中等部に進学。
学校の聖歌隊に選ばれる。この頃、音楽に目覚める。毎日、休み時間になると、学校の中庭で大声で歌う。
青山学院高等部に進学。反抗期が始まる。毎晩のようにライブハウスに通う。高校2年生のとき、アマチュアのロックバンド結成。リーダー兼ヴォーカルを担当する。音楽(歌い手)を生涯の仕事と決める。青山学院大学に進学。プロの「歌い手」になるための準備を始める。
2001年、音楽修業のためニューヨークに向かう。ところが、ちょうどその日(9月11日)、アメリカ同時多発テロ事件が勃発。ニューヨークを目前にして帰国を余儀なくされる。
2003年、再び音楽修業のためニューヨークへ。到達した3日後、アメリカがイラクに攻撃を開始。音楽修業どころではなくなり帰国。青山学院大学卒業。友人に誘われ東アフリカの音楽バンドの演奏を観に行く。ケニアの伝統音楽の強烈なビートに魅了され、その日のうちにブルケンゲのメンバーとなる。翌年、バンドメンバーとともに、初めてケニアの大地を踏み、ますますケニア伝統音楽の虜となる。
9・11米国同時多発テロ事件は、その後の世界を大きく変えた。それと同時に、私のミュージシャンとしての人生も大きく変えたのである。
ケニアでの修業
2005年、ルオー民族の伝統的弦楽器ニャティティの修業のため、一人でケニアへ渡航。なぜ、ニャティティかといわれれば、ニャティティの精霊に導かれたとしかいいようがない。ナイロビ郊外のボーマス・オブ・ケニアで、初めてこの楽器とであったとき、まさに一目惚れしてしまったのだった。
ナイロビでの基礎練習を終えた後、ニャティティ発祥の地であるケニア奥地の電気も水道もない村へと向かう。当代随一のニャティティ名人に弟子入りを依頼するも「女性にニャティティは教えられない」と断られる。というのも、元々ニャティティはルオー民族の選ばれた男性だけが演奏を許された神聖な楽器だったからである。それでも、あきらめずに頼み込み、師匠の家に住むことを許可される。
朝はニワトリの鳴き声と共に起き、片道30分かけて水くみ。帰りに薪拾い。ママの食事づくりや畑仕事の手伝いの毎日が始まった。村での生活が始まって3ヶ月後、晴れて名人の弟子となる。
マラリアに感染する等、現地の環境で苦しむこともあったが、半年後、ルオーの村々の長老、ニャティティの名人たちの前で演奏し、外国人でしかも女性ながらもニャティティの習得と演奏を認められ認定証を手渡される。世界初の女性ニャティティ奏者となった。
世界初の女性
ニャティティ奏者
日本に帰国し、CD『NYATITI-LUOの魂-』を自主制作。このCDがケニアのラジオで放送されたことをきっかけに、「女性がニャティティを演奏している」「しかも外国人だ」「現地の言葉で歌っているなんて信じられない」と、ケニアのテレビ・ラジオ・新聞で連日のように大きく報道され、アニャンゴはナイロビの街を歩けないほどケニアで一躍有名になる。
2007年、ヴィクトリア湖岸にあるホマベイで開催された国連主催のSTOPエイズコンサートには、アニャンゴ見たさに5万人超の観客が集まった。ケニア政府観光局から日本とケニアの文化親善大使に任命される。
2008年、ケニアの高校生12名と共に札幌YOSAKOIソーラン祭りに出演。ケニアの伝統音楽「ニャティティ」と日本の伝統音楽「ソーラン節」が融合して新しく生まれた「ニャティティソーラン」の楽曲に合わせて、日本人の有志ダンサー3,000名とともに演舞。TV・新聞でも大きく取り上げられた。その後、『Nyatiti Soran 2020』として、CD、DVD、指導用テキストとなり、のべ30万人以上の小中学生が運動会等で演舞することとなる。
2009年、「ニューズウィーク」誌(日本版)に「世界が尊敬する日本人100人」の一人として掲載される。ファーストアルバム『Nyatiti Diva』をリリース。
アニャンゴの登場は、ケニアの伝統的民族楽器が再評価される契機となった。ケニアの著名な女性ヴォーカリストが自身のライブコンサートでニャティティを演奏するようになり、ニャティティの女性奏者も次々と誕生した。また、ニャティティにピックアップマイクをつけて演奏するエレクトリックニャティティや、元々座って演奏していたニャティティを立って演奏するスタンディング奏法などアニャンゴ流の新しい演奏方法も広まった。
翼はニャティティ
舞台は地球
「世界中に出かけていってこの楽器を奏でてきなさい。私の行けない所まで、あなたが行って、この楽器を奏でてきなさい」という、ニャティティの師匠オクム・オレンゴの言葉を胸に、ヨーロッパへの進出を決意する。日本最大級の野外ロックフェスティバル「FUJI ROCK FESTIVAL」に出演も契機となった。
2010年、世界進出のためにフランス事務所を設立。セカンドアルバム『HORIZON』をリリース。2011年、サードアルバム制作のため渡仏。パリとカメルーンにてレコーディング。サードアルバム『Teï molo』をリリース。東日本大震災復興のための応援歌であるシングルCD『声をきかせて』をリリース。パリにて、サリー・ニョロと共に東日本大震災のチャリティライブ開催と活動の幅を広げていく。
2012年、ケニアの新聞の一面全面に師匠オクム・オレンゴの訃報を告げるニュースが掲載される。記事の半分は、オクムの最後の弟子で唯一の内弟子であったアニャンゴの紹介であった。世界へのさらなる進出を改めて心に決める。
2013年、第1回ワールドツアー(イタリア、ドイツ、ケニア、アメリカ)、2014年第2回ワールドツアー(フランス、アメリカ、ミャンマー、ケニア、ウガンダ)を実施。数々の有名アーティストを輩出したボストン・バークリー音楽大学にて、ケニア伝統音楽について臨時講師となる。
2015年、東京・広島・長崎で開催された「国連合唱団 平和と希望のコンサート」(戦後70年周年)にゲスト出演。2016年、ケニア、タンザニアなど東アフリカ4カ国にて、ベストアルバム『The Safari of Eriko Mukoyama』(Anyango Kenya Best)をリリース。ケニアで開催されたTICAD Ⅵ(第6回アフリカ開発会議)の式典および野口英世アフリカ賞レセプションパーティーにて演奏。2017年、アフリカのインターネットTVにて、アニャンゴが1年間放映される。アフリカ中で熱狂的なファンができる。2019年、UNDP(国連開発計画)の「AFRI-CONVERSE」シンポジウムに登壇。日本とケニアの10年に渡る文化親善活動に対し、東久邇宮文化褒賞を受賞。
2020年、新型コロナのため、すべての公演が中止となってしまうが、楽曲の制作に打ち込む。
2021年、8枚目のアルバム『KANKI』、2022年に9枚目のフルアルバム『AOKO』を次々とリリース。2023年、6年ぶりに渡ケニア。ネーションTVへの出演や、ナイロビ・キベラスラムの小学校にて演奏を行う。2024年、『DUNIA』(スワヒリ語で「この世界」という意味)をリリース。また、合唱用『アレゴへの手紙』を創作、リリース予定。
日本からケニア、ケニアからアフリカ、アフリカから世界へとアニャンゴの活躍は広がり続けている。
翼はニャティティ舞台は地球。今日もアニャンゴは、ニャティティを奏でる。